丹後宮津といえば、なんといっても「天の橋立」であろう。 東北の松島、広島の厳島とともに「日本三景」に指定されている。 そして厳島に続けと「天の橋立」も世界遺産への登録申請を検討している。 我がセカンドハウスから歩いて20分で「天の橋立、松並木」の北端、”府中”に着く。 ここから南へ3,7kmの松並木を「智恩寺」まで散策しそして帰ってくる。 一週間の内2〜3日やっているのである。 紀行文を始める最初に、この「天の橋立」から始めたいと思う。 天の橋立(砂嘴と松並木)はどの様にして、いつ頃で来たのか。 現在の橋立は宮津一之宮(元伊勢神宮、籠神社=このじんじゃ)の鎮座する、 江尻から長く延びて智恩寺(文殊堂)のある文殊地区まで続いている。 途中二つの切戸で切断されているが、 今は二つの橋(大天橋、小天橋=廻旋橋)で結ばれている。 古くは智恩寺のある場所も島であったようだ。 今は陸続きとなり、近くに北近畿タンゴ鉄道の「天の橋立駅」がある。 長い年月と、自然の営みにより作られた、 この”砂嘴”橋立はいつ頃から出来、どうして発達してきたのであろうか? 宮津市立図書館に宮津出身で宮津高等学校卒業の小谷聖史氏による 「天橋立の生い立ち」に記されているのを紹介しておきたい。 ■1■ まず、日置、野田川の断層線に沿った山麓には多数扇状地が形成されていった。 (約8000年ぐらい前) ■2■ 橋立砂嘴の発生地点である江尻には、真奈井川による典型的な扇状地があった。 ■3■ 6〜5000年前、(縄文海退)、江尻の真奈井、難波野扇状地の先に水中堆積物の形成が進む。 ■4■ 5〜4000年前、海退が始まると、突出している江尻の堆積砂礫のため、砂嘴が作られ始める。 ■5■ 4〜2000年前、ポストデリ−海退と言われ、現在より海面が1m位低かったと推定されている。 そのため、橋立砂嘴の水面上の部分は拡大し、今よりは幅も広かったと推定される。 松などが植生されたのもこの時期だろう。 ■6■ その後しばらく、砂嘴の発達は止まる、 あの有名な雪舟の「天橋立図」 (1502年の作といわれて いる)では、 小天橋砂嘴は描かれていない。 籠神社、国分寺、文殊堂は克明に描かれている。 ■7■ そのご、江戸時代に入ると活発な成長をはじめ、小天橋砂嘴を形成していく、 その原因の一つに は世界的な寒冷期で小氷河期とも呼ばれる時代があったこと。 このため、海面は若干低下して土砂の供給も多く、砂嘴が出来やすくなった。 二つ目は新田開発の活発化で農耕地の少ない文殊 地区でも海が埋め立てられ 海岸が砂嘴の発達を助長したと考えられる。 ■8■ なお、現在は自然の働きだけではこの景観を守ることはできない。 台風での大被害、漁港の突堤 建設 による変化などで礫や砂の流動も変わる。 平成元年からは、リサイクル工法で大天橋先 端に打ち寄せられた砂を、 江尻まで戻し効率的に砂礫を利用している。 また、平成4年からは、 突堤によるノコギリの歯のような形の改良を目指し、 突堤先端部の水面下 に扇状の潜堤を設ける「汀線形状改良工法」が実施されている。 そして、一方、内海(阿蘇海)では、「シ−ブル事業」と呼ばれる 覆砂による海浜の活性化工事が実施されている。 この内海(阿蘇海)は外海(宮津湾)と大切戸でつながっているに過ぎず、 湖のようになっているため、 海はヘドロが沈殿し、夏など悪臭を放つ、 これの改善も行われているのである。