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大宮売神社鳥居
国道312号線を宮津市から京丹後市に抜ける途中の大宮町にその古い神社はある。
道路から少し右に入ると、大きな鳥居と両側に美しく植えられた松並木の参道がある。
参道
そして、向かって右側に、「大宮売神社二座」と刻まれた石碑、

「古代祭祀の地」の碑
左側には「丹後国大嘗祭主基斎田跡」の石標も立っている。

大宮売神社本殿
100m位歩くと、小さな水路を渡り本殿に近づく、決して大きくもなく、また立派でもない本殿である。
右に小さな社があり、「旧本殿」の標識が、そして、その隣に「古代祭祀之地」の石の標識、
これが、あの豊受大神、伊勢神宮の外宮に祭られている神の出身社なのか?
なぜ天の宇豆売命と二座祭られているのか、神社の由緒によると、
大宮売神とは「天のうずめの命」となっているが・・・少し調べてみることにした。
この神社は、大正12年(1923)の「京都府史跡勝地調査会報告」に出ていて、
古い弥生遺跡の上に乗っかっていることが確認されている。
また、貞観元年(859)の「三代実録」に大宮売神が従五位上の位を与えられたことが出てくる。
その後、平安時代末ごろには、正一位大宮売神、従一位若宮売神とあることが、
現存する小野道風書と伝える古額から認められる。
古いだけでなく、「二座」祭られている、珍しい神社だと言うことがわかる。
この弥生時代後期の遺跡から出土した遺物は、ほとんど神社で保管されているが、
倭王国やそれが発展したヤマト王国の中心であった奈良の三輪町「山ノ神遺跡」などから出ている土器と
まったくと言っていいほど、酷似しているという。すなわち、それ程古い神社なのである。
「大宮売神社境内、古代祭き之地」の石標
なお、本殿横に、「大宮売神社境内、古代祭き之地」の石標があり、
稲作に関する祭り事がおこなわれたのであろう。祭神が「天のうずめの命、
豊受大神の二神ともに女性神であり、増殖、豊年を祝う祭りが行われた中心地であったのであろう。

大宮売神社二座の石塔
丹後の神社の中で、「二座」は、この大宮売神社だけであり、全国的にも珍しいとされる。
普通は「一座」であり、脇社として存在する。この神社の少し南に「大谷遺跡」(おおやいせき)=古墳があり、
被葬者は熟年の女性一人だと確認されている。帆立貝式前方後円墳で全長、32ある。
れいもん鏡と呼ばれる”銅鏡”と勾玉、ガラス玉、43,7センチの鉄剣も副葬されていた。
果たして、この女性が「大宮売ノ神」だったのか?
地元神であり、国魂神であった「大宮売神」と「天のうずめの命」がどのような関係だったのか?
なぞは深いし、面白い。
なお、天のうずめの命とは、天孫天のニニギノミコトが、天より降臨する時、
天の八つ辻で何者かわからぬ神が待ち構えていることを知り、随行の天のウズメノミコト(女神)に出会わせる、
そして、人とも猿ともわからぬ”猿田彦”に会い、従わせることになる。
そして、猿田彦の案内で無事、日向高千穂の峰に降臨した。この時の神が「天の宇須売ノ命」である。
すなわち、「天のウズメ」は天から降りた神である。大宮売神社の由緒にある、
大宮売神が”天のウズメ”と言うのは納得がいかぬ。
むしろ、「天のウズメ」=豊受大神なら共に女性であり、降臨した神で納得がいくのだが・・・
この丹後では、多くの神社で豊受大神が祭られている、この地で最も古いとされる、
大宮売神社でも、豊受大神が地元神と一緒に祭られている。
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さて、「日本書紀」のすい神天皇6年の条に「当時世の中が非常に乱れた、
そこで、天照大神とヤマトの地主神である、倭大国魂神との二柱の神を宮殿に並べてお祭した。
天照の世話をしたのは「トヨスキイリヒメ」であり、倭大国魂神の世話をしたのは、「ヌキナイリヒメ」であった。
ところが、この二柱を並べてお祭りしていると、倭大国魂神の世話をした「ヌキナイリヒメ」の髪の毛が抜け落ち、
体も痩せ細ってきた、十分にお世話が出来なくなった。
そこで、二柱を引き離し、天照には、新たに「倭姫命」をつけ、ヤマトから外に出してしまう。
そして、各地を転々とした後、伊勢の磯宮(現在地)に落ち着いた。
天から降臨した天照が宮中を出て伊勢に祭られ、
また、同じ天から降りた豊宇賀能神、すなわち豊受大神も丹後を出て伊勢に落ち着く、
結局、この二つの”女性神”の話は、同じものではないのか、と言う疑問がわく。
伊勢神宮に内宮と外宮がある。また、丹後の元伊勢神社も二つある。
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ここで小生の勝手な推論をお許し願いたい。
次回述べることになるが、「丹後の羽衣伝説」は、羽衣を取られた一人の天女が天に帰れず、
後この地の「奈具社」に祭られる「豊宇賀能売命」であること。
そして上記のことなどを考え合わせると 、かって古代、日本海側を表玄関にして、海外と交易し、
「丹後王国」を形成していたであろう事、そして、ヤマト政権に統一されていった歴史の中で、
地方と中央の関係が、このような”神社の由緒”や”伝説”として、作られていったと考えることができる。
常に、強いものの都合のいいように”歴史”は作り変えられる運命にあると・・・
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