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ある日、紀ノ国屋書店で「浦島太郎は、どこへ行ったのか」(新潮社)と題する一冊の本が目に留まった。
高橋大輔氏という、探検家というか作家というか”物語を旅する”をテ−マに、
今までも「ロビンソン・クルーソーを探して」の著書がある人の本を興味を持って読んだ。 

作者の高橋大輔氏は凄い人だ、自分の足と、長い時間をかけて、
この「浦島太郎」にまつわる、「亀」のこと、「浦島太郎」は実在の人物だったのか、
太郎は、何処へ行ったのか、「龍宮城」は何処なのか、「玉手箱」は・・・など
多岐に渡る伝説の中身を検証しようとされた。
以下、これらを追いながら、少し、紹介してみたい。 

浦島太郎伝説

まず、浦島太郎は実在したのか、 
丹後国筒川村(今の京都府与謝郡伊根町本庄)の住人だった。
日下部首の祖先で海人族の豪族であったと伝えられている。

名は、日下部曾却善次(またの名を浦島太郎といった) 
日下部宿禰と同祖であり、彦座命(ヒコイマスノミコト)の後なりと。
第9代開化天皇の子、彦座命の後裔である。

また、海幸、山幸の神話の”山幸彦”(天皇家の系列)に連なる。 日下部一族の本拠は、堺市福泉町であり、
住吉大社に祭られている「神功皇后」の父方の祖も彦座命である。
この、住吉大社に筒男三神(ツツノオサンジン)=ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオを鎮祭した時、
津守連の祖、田裳見宿禰が神主を務めた。
この地の名家津守連は海人族の長であり、浦嶋子、日下部に連なるという。 

浦島太郎伝説

二つ目の「亀」であるが、
日本近海には、”アカウミガメ”  ”アオウミガメ” ”タイマイ” ”オサガメ” ”ヒメウミガメ”の五種類がいるらしい。

浦島太郎伝説

果たしてこの丹後の海には、どの「亀」がいたのだろうか。
浦嶋神社の神殿には、わらで作られた亀の飾りが掛けられてあり、また、亀の甲羅もかかっている。

浦島太郎伝説

また、この舞台の伊根本庄から車でわずか30分位のところに、丹後一ノ宮「籠神社」(このじんじゃ)があり、
現宮司、海部光彦氏の祖先である倭宿禰ノ命が亀にまたがっている銅像がある。

浦島太郎伝説

やはり、この地と海人族と亀は切っても切り離せないものだろう。亀との深い結びつきを感じる。
そして、浦嶋の助けた亀は、「タイマイ」ではなかったかと。

古代日本に「亀ト」(キボク)という、亀の甲羅に火を当てそのひび割れによって吉凶を占ったことが伝えられている。
今も、対馬に残っているらしい。また、亀ト神事として、この丹後地方にも伝えられ
、亀に対する畏敬の念を人々は持ったのではないのか。海に接するこの丹後の地で、
万年も生きるといわれた亀に対する神格化が、この「亀ト」という占いの、中国から伝えられたらしい行事が、
五行説とも重なり合って”浦嶋の亀”となり、蓬莱へと誘い、龍宮や中国大陸へ、海の旅へとつながったのであろうと。 

さて、三つ目の「浦島太郎は、助けた亀に連れられて、龍宮城にきてみれば・・・」とある「龍宮」とは何処だろうか?
果たして、本当に有ったのだろうか。

最古の伝説では、太郎が出かけたのは、蓬莱だった。
蓬莱が龍宮に変わったのは「御伽草子」の中で、室町時代以後だという。 
浦嶋伝説が登場する「丹後国風土記・逸文」の中の「天書」に次のように書かれていると。

天書八巻によると、「二十二年秋七月に浦嶋子は、海の龍宮へと出かけて神仙を得た」と。 
別に、日本書紀では、「雄略天皇の治世二十二年秋七月(西暦478)に浦嶋は、蓬莱に出かけた」とある。

「天書」と「日本書紀」双方同じ年月に出てくる。この話は実際に存在した、ある一人の漁師の体験記だったのだろうと。
 488年に完成した「宋書、倭国伝」(中国の古文書)の中に、日本の雄略天皇のことが書かれているらしい。

天皇が中国に使者を送り、手紙を届けたこと。
南朝、宋の八代皇帝「順帝」であったこと。
船で行ったこと。
友好関係を深めたいとしたこと
。など日本の当時の「日本書紀」の記述に、ぴったり符合するという。

それでは、遣使の一人が浦嶋だったのか?そして、「龍宮」は、中国の宮殿だったのか。

長崎市の崇福寺に龍宮門がある。
中国から伝えられたものだろう、やはり、関係があるのか? 

そして、作者、高橋氏は、いろいろ探求した結果、
龍宮城は中国渤海に浮かぶ海上宮殿群「ケツ石宮」(始皇帝)だったのではないか、と述べておられる。 

浦島太郎伝説

四つ目は、あの「玉手箱」である。(縦40センチ、横26センチ、高さ21センチ)浦嶋神社(宇良神社)に玉手箱は残されている。
中には、女性の化粧道具が納められている。”乙姫さま”の記念の品であり、
忘れないよう、思い出してほしいと持ち帰らせたものであろうか。ふたを開けて、
白い煙が立ち昇り、老人に成ってしまったという痕跡は今はない。唯の塗りの箱(亀甲紋櫛笥という)である。 

そして最後は、「帰ってきた浦嶋は、果たして、どうなったのか。 

浦島太郎伝説

浦嶋神社で毎年、三月十六日、十七日に延年祭が行われる。かっては旧暦の正月十五日に行われていたらしい、
この祭りのクライマックスは、宮司が一抱えもする古い木の箱を抱えてきて、
参列者に回す、箱の中には、白と黒の翁面が入っている。
浦嶋太郎の老人となった姿であり、神となった「浦嶋大明神」であったと。

高橋大輔氏は次のように書いている。

「日本を取りまく二つの大きな文化的潮流が有った。
一つは、北方からの流れ、中国の渤海から朝鮮半島を南下して、
対馬、北九州を経由して日本海の丹後へ。 

もう一つは、南からの流れ、中国長江河口や福建省から石垣島、沖縄、南西諸島を経て、
鹿児島、北九州、瀬戸内、大阪、そして丹後に至る潮流、北と南、日本を作り上げた、
二つの文化潮流は北九州、昔の奴国があった福岡県の志賀島辺りでぶつかり合って、
また分岐し、一方は瀬戸内へ、もう一方は日本海へと流れて、最後には丹後で一つになった。
そして、そこに浦島太郎が誕生したのだ」と。

「丹後で重なり合った二つのル−トは,浦島太郎の航跡であると同時に、
それぞれ日本人が”命の根”として最も珍重した”稲作”がやってきた道でもあった。
そこが「伊根」(いね)と呼ばれることは印象的だ。
そして勿論、そのル−トは遠く太古の時代には、我々日本人がやってきた道そのものでもあった」と結んでいる。 

永い物語の旅を続けてきた、そして私は、次のように思う。 

遠い異国の地に、一人で行き、長い年月の後に、故郷へ帰り着いた漁師が年老いて死んだ、
その姿を哀れんで「浦島大明神」として,村の人達は祭ったのではないかと。

浦島太郎伝説

浦島太郎伝説

そして、この「浦嶋太郎伝説」の奥に流れているものは、「海人伝説」 「常世伝説、神仙思想」であり、
長く言い伝えられてきた丹後の海の人達の物語であると思うのである。 
そして、大陸伝来の不老不死への憧れ、願い、も多く含まれている。すでに述べてきた、「羽衣天女伝説」 「徐福伝説」
そしてこの「浦嶋伝説」は共にそれらの影響を深く受けたものであると思えるのである。 

浦島太郎伝説

中国や韓国の文化を導入し、開かれていく当時の日本の姿を、一人の漁師を主人公として画き、
海からあっという間にもたらされる文化、技術、物、思想など一夜にして変わる多くの事柄を包み込んだのではないだろうか。

四方を海に囲まれている日本、多くの地に「浦嶋伝説」として伝えられているのは、
それらの伝来を指していると解釈できないだろうか。

浦島太郎伝説

太郎が船出した本庄浜は、静かに波が打ち寄せていた。  

**「神仙思想とは」

中国大陸で、さまざまな民間信仰を基盤として、自然に発生したものに老荘思想などが加わり、
生まれた”道教”の中心的思想といえる。故に開祖はなく、体系化された教理、教義もない。
この”道教”に深く関係したのが「陰陽五行説」や「道家、シンイ説」 神仙思想などといわれる。

神仙思想は、古くからの中国固有の民間信仰で、呪術や方術を使う方士が
不老長寿の養生法即ち長生術を説くようになり、広く各地に伝わっていった。
この長生術を体得したものが神仙(ひじり)であり、
やがて東方海上に存在するといわれる蓬莱、方丈、えい州の三神仙をはじめ、    
各地の深山幽谷に住むと信じられるようになった。先に述べた「徐福」はその方士だったと伝えられている。

**浦嶋伝説が残されている場所    

丹後、網野町「網野神社」  知多半島、武豊町(名鉄河和線 富貴駅近く)「知里付神社」 地名に「浦之島」 「龍宮神社」    
長野県上松町「寝覚の床」 臨川寺に浦島太郎が祭られている、  横浜市慶運寺「浦島観世音」 など


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