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22.天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて



3月もあと一日を残す晴れた日、大阪から宮津へ向かう途中、和田山の国指定史跡「竹田城跡」を訪ねることにした。
舞鶴若狭道、春日から新しく開通していた「北近畿豊岡自動車道」を通り、和田山ICに向かった。
和田山の手前、道の駅「但馬のまほろば」にて、竹田城跡への道程やパンフなどをいただき、一路目的地を目指す。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 
天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 この城跡を訪ねたいと思ったのは、残されている城郭と石垣の美しさ、特に、近くの「立雲峡」から見る、
その姿は”天空の城跡”と言われる程素晴らしい眺めであると、
多くの観光客、プロ・アマのカメラ愛好家などのビュ−スポットとして有名であったからである。
「日本100名城」に選ばれており、戦国時代屈指の山城であり、
その勇壮な石垣群は日本の”マチュピチュ”とも呼ばれていると観光誌に紹介されていた。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 
天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 この城跡は、JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353,7m)の山頂部に築城された、
別名虎臥城(とらふすじょう)が、いま「竹田城跡」として残されている。

 城跡へは,

@JR竹田駅裏から登るコ−ス(約30分)、

A観音寺山登山道(約40分)、

B安井登山道と言われる長いコ−ス(約80分)

そして、

C自動車道沿いに登る大手門コ−ス(約40分)、

D中腹まで車で行き、駐車場から細い急坂を登る最も短い南登山道(約20分)

の 5つのコ−スがある。

最も急な厳しいコ−スを取り山頂を目指すことにした。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 中腹の駐車場には、「竹田城山門」を移築してあり、また、山名氏、赤松氏、
両氏の戦いの戦没者の供養塔と碑が建てられていた。
  
 まず「花屋敷(花殿)」と呼ばれる広い場所に出る、石垣の間をぬい「本丸」 「天守」を見て、
北の「二の丸」 「三の丸」 「北千畳」とみて歩く、南の「二の丸」 「南千畳」は上から見下ろしてカメラのシャッタ−を切る。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて
 
 この城跡は、上からその「縄張り」(平面構成)を見ると、”鳥が双翼を広げた形”をしており、
小高い山の頂上部とその周辺の地形を巧みに活用して防御中心の堅牢な山城を築城していたことが認められる。
今は、桜の老木が随所に植えられ、間もなく訪れる”花のシ−ズン”には多くの観光客であふれる。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 また、麓を流れる円山川から立ち上る霧によって9月〜11月の晴れた日の早朝には雲海が発生し、
近くの「立雲峡」から眺めるその姿は”天空に浮かぶ城”という感じであるらしい。
今日は夕刻でもあり、その絶景は見ることができなかった。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

資料より「竹田城跡」の歴史,遺構などを振り返っておこう。
嘉吉元年(1441),嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていた。
竹田城はこの時、赤松氏に対する山名氏側の最前線基地の一つとして築城された。
守護大名の山名宗全が構築に着手、有力家臣の太田垣氏が完成させたもので、その後7代にわたり城主を務めた。
天正5年(1577)羽柴秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代となった。
これ以降竹田城は織田、豊臣方の拠点城郭として機能した。
天正8年(1580)、羽柴秀長は、出石・有子山城に移り、
竹田城は、属将・桑山重晴に預けられ、天正13年には赤松広秀が城主となった。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 竹田城は、播磨、丹波、但馬の交通上の要地に築城された。
築城当初の姿は、不明な点も多いが石垣遺構周辺に存在する曲輪から判断すると、
現在の本丸・天守台のある山頂部から三方に延びる尾根の上に曲輪を連続的に配置し、
堀切や竪堀で防御性を高めていたと思われる。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 織・豊期以降の竹田城は、最高所の天守台をほぼ中央に置く石垣城郭となり、
本丸以下南に二の丸、南千畳が、北には、二の丸、三の丸、北千畳を築いている。
さらに、北西部には、花屋敷と称する曲輪がある、
ここは、主郭の中でも搦め手の位置にあたるため南北には、向かい合った石塁を築き、防御性を高めている。
この城の規模は、南北約400m、東西約100mで、今も当時の威容を誇っている。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 織田信長、豊臣秀吉の戦国時代、日本各地で多くの城が築城された。
平城、山城など、その地域の特徴を生かした、守りを固めるための工夫がなされた。

 山城では、”幻の天主”と言われた「安土城」、そして斉藤道三の「稲葉城(岐阜城)」が有名である。
ただ、「安土城」は天主への長い坂道と家臣の屋敷跡だった場所のみ見ることができる。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 そして、今回訪れた「竹田城跡」も、1地方の領主の山城跡であり、見事な石垣址のみ残されているのである。
築城当時そのままに残されているこの石垣群は日本一と言われている。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて 天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 山の頂上にあって、400年もの長い年月、しっかりとした形で現存する石垣は、
安土城、姫路城と同じ穴太積み(あのうづみ)で、自然の石と石の声を聴きながら積むといわれる、
近江穴太衆の手による技法であったからであろう。
そして、使われた石材は近くの観音寺山やこの古城山から取り出されたものであろう、石取り場の跡も調査で確認されている。

天空の城跡、但馬和田山「竹田城跡」を訪ねて

 石垣の見事さに、ただカメラのシャッタ−を切るだけであった.陽も西の山の端にかかってきた、山を下りることにしよう。
下りは大手門コ−スを選び、「竹田城祉」の石標を見て、広い舗装された自動車道を駐車場まで下った。
時々、仰ぎ見ると石垣群が堂々と連なり、石垣の上に城閣が残っていれば、
どれ程素晴らしいものであったかと想像などしながら、城跡を後にしたのだった。

 この古城山の山麓と円山川に挟まれた三角形の土地の中心に、JR竹田駅がある。
その駅付近には、歴代城主の菩提寺、(善證寺、常光寺、勝賢寺、法樹寺)などが立ち並ぶ、
さらに、竹田の伝統的な切妻造り、中二階建て平入り、虫籠窓、一階は格子といった落ち着いた街並みが続く、
そして、表米神社、えびす神社、こんぴら神社、天満宮などがある。

 立雲峡と共に、これらの観光スポットは、またの機会に譲ることにした。312号--9号--176号線と
一般道を宮津まで帰らねばならぬ、2時間〜3時間はかかろう、思いを残しながら帰路についた。

東北大震災が発生してより、もう3週間以上が経過した、多くの、本当に多くの人達が犠牲になり、
また今、苦しい避難生活を送っている。
毎日の生活を安心して送ることができるまでには、まだまだ長い時間と努力が必要だ。
そんな時、いつもと変わらぬ生活ができる幸せをつくづく感じながら、今回も宮津にやってきた。
目の下、100m位だろうか、静かな海が美しく輝いていた。

 あの東北の恐ろしい津波を、TVで克明に見た今、わが住まいは果たして大丈夫だろうか、
海岸から何メ−トル位高いところに有るのだろうと目測したりしている。
そして思う。「節電」や「自粛」ばかりではダメだと。
消費もしっかりやり、経済が復活して初めて税収も増える、それが東北復興への支援につながる。
普段の生活をしながら、その思いをもって”がんばろう”と。

 政府・日銀・企業など懸命な復興への取り組みと支援体制を構築しようとしている。
諸外国からも、いろんな支援が届く。

 5日の新聞に「西から東へ、支えの心を」と”関西著名人メッセ−ジ”が発表された。
「我々は、16年前、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた時、もう立ちあがれないと思った時、
全国からいたわりと応援の声を,いっぱい頂いた。今度は、私たちが声を送り、恩返しする番だと」。
そして、「様々な活動の”自粛” というより、むしろ普段の倍頑張ろうと」。

 私も、その気持ちを、ささやかな義援金として、日本赤十字社を通じて送ることにしよう。

   参考

朝来市商工観光課  TEL, 079-672-4003

わだやま観光案内所 TEL, 079-674-2120



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