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24、細川ガラシャと宮津城下町
 

 いま、浅井三姉妹の物語が、NHK大河ドラマ「江」として放映されている。
その 中で細川ガラシャが、美しく聡明な女性として描かれている。
そして、非業の死を遂げるところまで放映されていた。
 
 また、「細川家の至宝展」が2011年10月8日〜11月23日まで京都国立博物館で開催される。
この細川家至宝とは、旧熊本藩主で肥後細川家第18代当主細川護煕(ほそかわもりひろ)氏が務める
永青文庫の持つ家宝である。  

 細川護煕氏は第79代内閣総理大臣となったその人であり、
戦国大名細川藤孝(後、幽斎)、忠興(夫人がガラシャ)の子孫である。源流は清和源氏、
奥州細川家の流れをくむという、母は公爵近衛文麿(総理大臣を3度務めた)の娘である。

 さて、細川藤孝、忠興父子は、宮津及び舞鶴の城主であり、細川ガラシャもこの宮津で数年暮らしている。
ここで、「細川ガラシャと宮津城下町」について、少し述べてみたい。

 細川ガラシャとは、もう皆様ご存知の明智光秀の次女(三女という説もある)”玉”である。
永禄6年(1563年)に生まれている。
天正6年(1578年)細川藤孝の長子、忠興と結婚し、細川氏の居城勝龍寺城(京都、長岡京)に入り、
のち、丹後宮津に移っている。
この結婚は、織田信長の進めたものであり、細川藤孝は織田信長、豊臣秀吉に信任厚く目をかけられていた。
特に忠興は秀吉に可愛がられた。

 天正8年(1580)4月、忠興、玉の嫡子忠隆誕生、この年、忠興丹後十二万石の国守となる。
 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、父光秀、信長への謀反で忠興より「同室叶うべからず」として、
丹後半島の弥栄味土野に幽閉される。
 天正10年7月、信長の後継者、秀吉から忠興、丹後を安堵されている。
 天正12年秀吉より再婚許される。
1587年,玉25歳の時、忠興島津義久討伐のため九州へ出陣、不在中にキリスト教に入信、「ガラシャ」の霊名を授かる。

 1588年、26歳、宮津にて次女多羅を出産、1598年36歳、三女”まん”を出産、
 1600年38歳、6月、忠興家康に従い上杉景勝討伐のため関東に出陣、7月17日、
大阪細川屋敷にて石田三成より人質として大阪城入りを要請される、これを拒否、自らの付け人の手にかかり昇天。
   
辞世の句、「散りぬべき、時知りてこそ世の中の、花も花なれ、人も人なれ」

 7月20日、父幽斎、宮津城自焼し舞鶴田辺城にて籠城、 9月15日、忠興関ヶ原合戦に出陣、
 11月、忠興家康より豊前39万9千石を与えられ宮津を去る。
 1601年忠興、オルガンティノ神父に依頼し、大阪にてガラシャの教会葬を行う。

 ガラシャの経歴はざっと以上のようなことである。

細川ガラシャの隠棲地を訪ねて
山の木々が色づき始めた秋の一日、ガラシャ夫人が約2年の月日を暮したとされる
丹後半島弥栄の味土野という山深い里を訪ねた。
まあ、よくもこんなにも奥地を選んで夫、忠興は”玉”を隠したものだと思った。

224、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】 24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

 その場所は、わずか100坪ばかりの小さな丘であり、その一段下にこれまた100坪ぐらいの平地があるばかり、
非常に狭い場所なのである。「女城跡」として残っているが、
それでもさすがと思えるのは、深い谷と川に囲まれた,ひとが訪ねるにしても攻めるにしても難しいという感じの土地なのである。
昔のこと、どの様な形で狙われるか知れたものではない。
少し離れた場所には、守りの設備か、「男城跡」として残っている。

 形は”離縁”隠棲させたとはいえ宮津城主の妻である、”玉”を大切に守っていたのだろうか。
当時は丹後半島の右岸宮津湾をさかのぼり、日置に上陸、そこから山深い世屋,木子、
駒倉という山地を通り「味土野」の地に至ったことが記録に残っている。
今回は、カ−ナビ(近くの集落までしか入らないが)を頼りに随分遠回りして尋ねた、
ガラシャが行った右回りではなく、左回りのル−トである。

 須川という集落からは狭い道路が続く、車一台やっとの道であり、すれ違いは不可能に近い、
小さな谷川に沿いくねくねと曲がりくねった道である。”来るんではなかった!”と一瞬思ったりした。
もう行くしかない、後戻りはできない、途中、バイクのおじさんに出会う、聞いてみると車で行けるという、
”狭いのでゆっくり走ってくださいと。あと300m位ですとの声にほっとする。
 そして、少し広い道路になり、小高い丘が見えてきた。橋を渡り「細川忠興夫人隠棲地」の碑に出会った。

24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

 もうしばらくすると冬が訪れる、深い雪になるだろう。
410年前のこの地は現代よりもさらに厳しい寒さと雪だったと思われる。
”玉”にとってこの地への「幽閉」は死に等しい苦難の生活を強いたものだったろう。
極寒に耐え、夫のこと、子のこと、を思って深閑とした暗闇の中で”玉”の恐怖と不安は極致に達しただろう。

 しかし、冬が去り、春の訪れを迎える頃には、心優しい村人たちの素朴で温かい人情に触れるとともに、
いつも変わらぬ侍女”清原いと(マリア)の生き方に、いつしか心が開かれていった。
信仰への道の入り口となったと考えられる。

24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】 24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

 そして、5年後入信し、ドンナ・ガラシャの霊名を授かっている。
ガラシャとは、ラテン語で恩寵(神の恵み)の意である。 

 ガラシャ隠棲地は今も行きどまりである。
これほどまでに奥深い山地に隔離された彼女の気持ちを思うとき、
碑の横に祀られている小さな観音様と野に咲く一輪の”桔梗の花”だけがやさしく語りかけているようであった。

ここで宮津城下町についても、少しふれておきたい。
 宮津は、城も町も細川が作ったというのが正しい史実である。
ところが一般的には、京極高知が作ったように説明されている。
織田信長から豊臣秀吉の時代は戦国期から近世にかけての狭間の時代で、
まだまだ戦国の血なまぐさい様相を呈していた。
各地に豪族が領主として、小さな地域を支配していた時代だったと思われる。

 そして、そこへ宮津の領主として信長の命を受けてやってきたのが細川藤孝、忠興父子であった。
(天正8年8月)そして、城も、明智光秀の支援を受けて築城したことが記録にある。
町の形態も急速に整備されていった。

24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】 24、細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

 慶長5年、忠興が徳川家康から関ヶ原の武勲により、豊前中津へ栄転、39万9千石を与えられ移ることになった。
そのあとに京極高知が宮津に入り、さらに城の拡張、町の整備が進んでいった。そして、丹後藩が成立する。
その後、丹後藩は高知の三子により三分割され、宮津藩、舞鶴藩、峰山藩となり藩制が確立する。
京極家が、これにより初代藩主となったことにより一般的に”宮津は京極が作った”となったと考えられる。

現在の宮津市は人口約2万人弱、年々高齢化と共に人口減少している。
観光以外特にこれといった産業もなく、”天橋立”に頼っている感すらある。
年間250〜260万人が訪れるという天橋立や伊根の舟屋、これに加えて大江山地区の世界自然遺産登録に向けて、
いま、力を入れている宮津市、役所の資料を手掛かりに中心地を歩いてみた。

 宮津城本丸跡

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関西電力宮津営業所駐車場外側フェンスに案内板がかかっている。字がよく読めないぐらいである。
 「織田信長の命を受け丹後を領した細川氏は、天正8年(1580)8月宮津に入り、
急いで浜手新城を、さらに、城下の建設を進めた。その後、慶長5年(1600)細川忠興が会津上杉氏討伐に出陣中に
大阪方(石田三成)が丹後に兵を向けたため、父幽斎は宮津城を自焼させ、舞鶴田辺城に籠城したことが述べられている」と。

 城の石垣の残骸

細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】 細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

国道176号線沿いに宮津武田病院があり、その裏手、従業員駐車場に400年以上前の城の石垣が残っている。(写真)

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宮津城は海に面して造られていたことが、古い絵図面から知られている。

 宮津市役所、大手川、大手橋

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外堀としての役割を果たしていた大手川、大江山山麓より流れ下るこの川に隣接して市役所がある。

川の改築工事が行われ美しい”しらかべの道”等に生まれ変わっている。(城壁の復元)

 太鼓門

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元、三の丸にあった、今は、大手川に面した宮津小学校の正門として移築されている。
そしてその脇には珍しい、また、懐かしい「二宮金次郎(尊徳)」の像が立っていた。

 聖ヨハネ天主堂(カトリック宮津教会)

細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】 細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

明治29年(1896)に建設された木造の教会で、日本最古、畳敷きのお堂で毎週ミサが捧げられている。
市役所の裏に隣接。

 和貴宮神社
 
応永28年(1421)の創建、丹後一ノ宮籠神社(このじんじゃ)が府中という阿蘇海を挟んで対岸にあり遠いため分社したといわれる。
ワケの宮(分宮)と言われていたが、現在は和貴宮を充てる。
祭神は「国常立神」(クニトコタチの神)、豊受大神、天水分神(アメノミマクリの神)である。

 KTR宮津駅

細川ガラシャと宮津城下町【旅楽おやじ倶楽部】

宮津市役所を真東に400m位行くと平屋建ての宮津駅がある。駅前は広いロ−タリ−になっている。

 なお今回は、訪ねることができなかったが、中心地から西方山手麓には寺町がある。歴代城主の菩提寺が多く、
その数12か寺を数える。いずれも格式の高い名刹である。

 さて、細川ガラシャ乱世に生まれ、悲運な人生を送った隠棲地を訪ね、
また、宮津の城跡や歴史を振り返ってきたが、かって北前船の寄港地としても栄えたこの町の
「宮津節」を最後に紹介してこの文を閉じたい。

   ””二度と行こまい丹後の宮津  縞の財布が空になる  丹後の宮津でピンと出した””

  この”ピン”と出した、とはどういう意味か、よくわからないらしい。
ある説によると、当時、京や大阪よりも、この宮津の花街は値段が高かったらしいと。
芸妓の遊ばせ上手で散財し、”気前よく”ピン”と支払ったのだとか…果たして??

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